mike-neckのブログ

Java or Groovy or Swift or Golang

テキスト誤読性について

もう、僕が大学学部を卒業してからもう十数年経っているので、もうその関連の書籍は読んでいないし、その関連の記憶も定かではない。

ご自身が理系である、情報系を卒業しているという方々で、文系なんて役に立たないと思っている方がいらっしゃったら、ぜひとも文系の人間がやるであろう文学理論、特にポール・ド・マンや、ジャック・デリダの本を読むことをお勧めします。

僕の記憶が定かではないのですが、ドキュメントに対して皆さんならこう思われることだと思います。

ドキュメントに書いてあるから、そのドキュメントを記述した私の意図は、このドキュメントを読む人は完全に理解できる。

それに対して、ポール・ド・マンジャック・デリダの姿勢は非常に参考になる。雑ですがまとめると…

  • テクスト(ここではドキュメント)は読まれて初めて存在する
  • テクスト(ここではドキュメント)はありとあらゆる誤読の可能性を持っている

例えば、私の「StreamがAutoClosableであることを理解していないと…」というブログ記事は、僕自体の存在の認知度から多くの人には読まれないテクストであります。したがって、このテクスト自体が多くの人には存在していないわけです。

また、私が昨日誤読していた某R社さんの資料においても、33pのコードは読んだけど、39pの部分は目立たない記述になっていることもあり僕がそれが目に入らなかったため、その記述自体が読まれないテクストであり、StreamAutoClosableであることをちゃんと発表者が理解しているという事実が存在していなかったということになります。その結果、僕の誤読から某R社さんの記述しているコードはリソース解放漏れがありうるという推測に陥ってしまう可能性をはらんでいるわけです。

全くコンテキストを共有しない他者の存在というのが、「ドキュメントを記述した私の意図は、このドキュメントを読む人は完全に理解できる」どいう幻想を破壊します。なぜなら、誤読によってその「私の意図」には到達することはできないから。ではその他者に向かってドキュメントを書くというのはどういうことなのか?他者の誤読が避けられないものとして受け入れて、それでもなお、ドキュメントを書き続けることなのかなぁ…と思いつつ、もう、僕はこの辺りのこと忘れてしまったし、意図とやらは確実に伝えられることはできなかったはずだし、ただ他者には存在しない「意図」とやらを理由にテキストを書き続けることをやめてしまうのは、単なる独我論に陥るのではないかなと思う次第でありましたが、いかんせんもうその辺りの話は忘れてしまった(´・ω・`)